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桜のライン 山南敬助の謎と考察 桜のライン

山南敬助は試衛館のメンバーの中において、一番謎が多い方であります。書籍を読んだり、資料など調べたり、またそのゆかりの地を訪れたりして、自分なりに考察したものです。
私的な考察であることをご了承下さいませ。


1.出身地について
 山南は奥州仙台藩出身と云われています。浪士組としての届け出の名簿、会津藩の記録、光縁寺の過去帳記載の「往詣記」など当時の記録、また明治以降の小島鹿之助や永倉新八など山南と深い付き合いがあった人たちも、山南は仙台の出身だったと記録に残しております。
 それなら謎、仙台藩出身が謎なのかと言うと、現代の宮城県の電話帳などで調べる限り、山南という姓が存在しないこと、また山南の父親は仙台藩の剣術師範だったと云われ、浪士組の名簿にも山南敬助について、松平陸奥守元家来と書かれており、仙台藩において武士階級の身分だったと考えられます。しかし当時の仙台藩士名簿に山南という名前は見当たらないために、仙台藩出身が疑問視されるわけです。
 私も宮城県の電話帳を調べてみたところ、山南という姓はありませんでした。また仙台市を実際に訪れて、仙台市博物館の中にある情報資料センターにおいて藩士名簿を調べてみましたが、山南という姓の藩士は載っていませんでした。
 山南という姓は、現代において希少な苗字であります。自分が電話帳で、直接調べたのは宮城県のみですが、現代、東北方面において山南という姓は見られないと云われております。
 これらのことから、山南の父親は藩士という身分ではなかったのかということも考えられますが、現在においても宮城県、また東北方面に山南という姓が存在しないことから、仙台藩出身でないこと、或いは山南敬助が山南という偽名を使っていたという考え方が妥当ではないかと思っています。
 山南という一族が仙台藩を離れて違う所に移り住んだ、また山南が生まれてすぐに奥州を襲った天保の飢饉で山南敬助以外の山南という一族が全滅したということも考えられないわけでもないですが、可能性としてはかなり低いと思います。
 実は山南という名と仙台藩の繋がりがひとつだけあります。
天明2年(1782)に仙台藩を訪れ、俳句の指導にあたったり、句集をまとめたり、芭蕉の句碑を建てた駿河国出身の俳人がいました。その俳人の名は山南官鼠(やまなみかんそ)と言います。仙台藩に一時的に滞在していただけであり、また山南とは俳号であること、また年代からして、その人と山南敬助のつながりを考えるのは難しいと思っていますが、山南敬助がその俳人の名前を知っていたという可能性はあります。
 仙台藩出身ということは、先に述べたように当時や明治以降の記録に様々な方によって残されています。と言うことは、本人が一貫として、自分は奥州仙台藩出身だと言っていたということです。
 山南敬助が偽名を使っていたとしても、また仙台藩出身でなかったとしても、本人に真実を言えない何らかの事情があったのでしょう。
 山南が奥州仙台藩出身、名は山南敬助と言っていたならば、今はそれを信じるしかないし、信じたいと思います。


参考文献:新人物往来社編『新選組銘々伝 第四巻 清水隆「山南敬助」』新人物往来社  仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編5 近世3』仙台市
 

桜のイラスト
 

2.姓名について
 山南敬助の姓名については、ぷろふぃーるで書いているように、本姓は藤原、諱を知信と云われています。
 山南という姓は、現代において「難読奇姓辞典」に収録されているとのことです。「やまなみ」、「さんなん」という読み方の他に、「やまなん」もあるそうです。 しかし山南の出身地である仙台藩、つまり宮城県には、山南という漢字の姓そのものが、現代では存在しないようで、また東北にもないようです。1の出身地においても述べていますが、当時の藩士名簿に山南という姓はありません。
 1の出身地にて述べていますが、仙台藩と山南という名についての唯一の繋がりがあります。それは駿河出身の俳人・山南官鼠(やまなみかんそ)と言う人が天明2年(1782)に仙台藩を訪れ、嘉定庵(松尾芭蕉の流れを引く大島寥太が設立)にて門人たちの指導に当たり、句集をまとめ、芭蕉の句碑も立てています。しかし山南は俳号であること、一時的な滞在であること、山南敬助が生まれる約50年前であることなどから、山南敬助との接点を考えるのは無理があります。
 どちらにしても山南が仙台藩の出身であれ、少なくとも姓については偽名だったのではないかと思うのです。
 山南敬助の姓については、『やまなみ』と読むのが主流とされてきましたが、当時や明治になってからの記録に、三男、三南と記されたものがあるために、山南は『さんなん』という読み方が正しかったのではないかとも云われてきています。新選組の書籍での山南敬助のプロフィールにて、『さんなん』で挙げている方、また『さんなん』が正しいと述べている方も少なくありません。
 多摩の日野村の古谷優之助が三南、三男と残しています。また壬生浪士組の早い時期にに入隊して箱館まで行った島田魁が三男と記しており、そして山南と面識があったと思われる西本願寺の寺侍の西村兼文も三南と残しています。伊東甲子太郎派の生き証人である篠原泰之進は、正式の場合は「やまなみ」と言っていた。そして隊士たちは「やまなみ先生」と呼び、同輩は「さんなん」と言っていたと、子母澤寛氏は『新選組異聞』で触れていますが、篠原泰之進が明治に亡くなっていることから、子母澤寛氏が本人から直接聞いた話ではないと思われます。
 正式の読み方は『やまなみ』であったが、『さんなん』という音読みで読まれていたために、そのために三男や三南という当て字が使われていた。それとも元々『さんなん』が正しい読み方であったのかは、現代に残る資料だけでは確かな答えは出せないと思っています。と言うことで、今は『やまなみ』でも『さんなん』でも自分が納得できる方でいいのではないかと考えます。
 名については、初名と云われる敬介、その他に敬輔、啓介、啓助などが記録に残されています。これで、名は誰からも『けいすけ』と読まれていたことがわかりますが、西村兼文が三郎、三治郎で残しております。これについては、本当に謎であり、今の段階では考察することすらできない状況であります。ただ、西村兼文のみがこの名を使っているのは、何らかの理由があったから、その名を使ったのだろうと思う次第です。


参考文献:新人物往来社編『新選組銘々伝 第四巻 清水隆「山南敬助」』新人物往来社  仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編5 近世3』仙台市  新人物往来社編 『新選組日誌 コンパクト版 上』新人物往来社  新人物往来社編『新選組大辞典』  子母澤寛『新選組異聞』中央公論社
 


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