とっぷ ご挨拶 ぷろふぃーる 新選組 年賦 出来事 ゆかりの地
ゆかりの人々 書籍 映像と舞台 謎と考察 れぽ ぶろぐ



桜のイラスト出来事 桜のイラスト

嘉永6年〜文久2年 文久3年 文久4年・元治元年 元治2年(慶応元年)


ライン 嘉永6年〜文久2年 ライン 

出来事 年月日 詳細
柳剛流の剣客であった中山幾之進との立ち合い
嘉永6年
(1853)
4月15
小野派一刀流の大久保道場の門人であった山南敬助が、剣術の試合を申し込んできた柳剛流の中山幾之進と立ち合う。

現代に残る唯一の山南敬助の真筆がある。立ち合った柳剛流の剣客であった中山幾之進が嘉永4年(1851)から嘉永6年(1853)に亘り、自らが出向いて剣術の試合を申し出て、その試合相手に、署名を書いてもらった『攪撃修行録』がある。その末尾に

 
飯田町掘留大久保九郎兵衛門人
        一刀流 山南敬輔


と書かれている。
この記録から、山南敬助は小野派一刀流を学んでいたことがわかる。
この時、山南敬助は21歳(天保4年生まれの場合)。中山幾之進は29歳。

多摩の日野にて新年の稽古

安政8年
(1861)
1月14日〜1
7日
15日と16日の2日間に亘って行われた古谷道場での新年の稽古に近藤勇、土方歳三、井上源三郎と共に参加する。
これは、日野の古谷優之助によって記された『剣術覚帳』に、山南の名前、また練習試合にて取った本数が記されている。
また佐藤彦五郎の日記には、前日の14日に近藤勇、沖田総司他一名と共に山南敬助が来て泊まったこと、また新年の稽古が終った翌日の17日に近藤らが八王子に向かって出立したことが記されている。
多分に近藤らに山南敬助も含まれ、八王子にての新年の稽古に参加したと思われる。また『剣術覚帳』には総司の名前は記されていないが、新年の稽古に参加したと考えられる。
近藤勇四代目の襲名披露の野試合

 
文久元年
(1861)
8月27日
近藤勇の四代目の襲名披露の野試合が、府中宿の武蔵総社六所宮(現在の府中市にある大國魂神社)にて行われた。
赤軍と白軍に別れ、山南敬助は土方歳三と共に赤軍として参加。野試合は三回戦行われ、二回戦では山南が井上一郎と共に白軍の大将である佐藤彦五郎を打ち取るという活躍を見せている。
結局、赤軍はその一勝に終わり、白軍の勝利となる。野試合を検分するという形の本陣には、総大将の近藤勇の他に、太鼓役の沖田総司、鉦役の井上源三郎の名前が見られる。後の試衛館派と云われるメンバーの中で、元々の天然理心流のメンバー以外で参加しているのは山南敬助のみである。
その日の夜は、府中宿の遊郭を貸し切って、朝まで騒いだそうである。
小野路村を訪問 文久2年
(1862)
1月19日
近藤勇と沖田総司と共に、小野路村の橋本道助(政直)宅を訪問。橋本道助の母親は小島鹿之助の姉、また道助の妻は佐藤彦五郎の長女である。そんために橋本道助家は小島鹿之助や佐藤彦五郎、また土方歳三と親戚になる。
時期的なことを考えると、新年の挨拶、また新年の稽古のために訪れたと思われる。そして小島家の日記には、翌日の20日に『近藤来ル』とのみ記されているが、橋本家とは近所であるので、山南敬助も総司も共に訪れたと思われる。
参考文献:菊地明・伊東成郎・山村竜也『新選組日誌 コンパクト版(上)』新人物往来社  新人物往来社編『新選組銘々伝 第四巻 清水隆「山南敬助」』新人物往来社  新人物往来社編『新選組史跡事典 東日本編』新人物往来社  『「日野宿叢書 第四冊 佐藤彦五郎日記 一 」佐藤彦五郎日記に見える主な新選組関係記事年表』日野市

ホームへ