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新選組

河合 耆三郎 (かわい きさぶろう) 
生年 天保9年(1838)
没年月日 慶応2年(1866)2月12日  (3月28日)     
享年 29
死因 切腹、或いは断首
出身 播磨高砂
剣術 不明
米問屋の長男として生まれました。文久3年6月か、7月頃に入隊。同じ年の8月に起きた禁門の政変には参加したと思われます。新選組では勘定方という職にありました。しかし元治元年の池田屋事変では、土方隊として出動し、15両の褒賞金を受けています。同じ年にあった禁門の変では、その戦いの残務処理にあたったことを伝える史料が残っています。その後、表立った活躍はなく、山南の死から約1年後の慶応2年2月に亡くなります。新選組の公用金に不足があり、その責任を取ったと云われています。西村兼文の『新撰組始末記』に記されており、またまた子母澤寛の『新選組物語』にても描かれています。
光縁寺の山南敬助との共同墓石の右側面に名前が彫られていますが、過去帳の『往詣記』には記載がありません。一方、壬生寺には身内によって建てられた単独の墓碑があります。


島田 魁 (しまだ かい)
生年 文政11年(1828)
没年月日 明治33年(1900)3月20日     
享年 73
死因 病死
出身 濃州厚見郡雄綱村
剣術 心形刀流
両親の死後、転々とした後、大垣藩の島田才の養子となったと云われています。29歳の時に江戸の坪内主馬道場に入門しており、この時に永倉新八と出逢ったようです。文久3年5月25日の時点で、壬生浪士組の記録に島田の名前が確認できます。島田の上京時期、理由については不明ですが、早い段階で京にて永倉と再会し、そして入隊することになったと考えられます。その後は諸士調役兼監察、旗役と行事世話役、また慶応元年5月の編制では伍長に就いています。入隊して間もない頃と思われる文久3年6月2日、壬生浪士組の10人が下坂していますが、その中に山南敬助と共に島田の名前があります。そしてその翌日の3日に大坂力士との乱闘事件があり、山南と共に島田もいたと云われています。
また元治元年の池田屋事変のきっかけとなる事前の探索活動にて活躍し、池田屋事変では土方隊として出動。褒賞金17両を受けています。翌月の禁門の変にも参加。同じ年の10月には永倉らと一緒に近藤批判の建白書を会津公に提出したいう逸話もあります。しかしその後は永倉が新選組を離れても自分は留まり、箱館まで土方に付いていった数少ない古参の一人です。
箱館戦争が敗北に終わると、謹慎となり、それが解かれたのは明治5年。その後、新選組の屯所があった西本願寺の裏手に道場を開き、住んだそうです。また明治19年頃からは西本願寺の夜間警備員になり、最期は西本願寺の境内で倒れました。
謹慎中に書いた『島田魁日記』には、文久3年から明治2年までの壬生浪士組、及び新選組について記されています。しかしそこには山南の脱走・切腹については何も記されていません。


新見 錦 (にいみ にしき)
生年 天保7年(1836)
没年月日 文久3年(1863)9月13日  (10月25日)     
享年 28
死因 切腹
出身 常陸水戸
剣術 神道無念流
浪士組として京に行き、山南らと一緒に残留して、壬生浪士組の結成当時のメンバーの一人です。芹沢派であり、結成当時は局長の役職級にあったようですが、後にその役職からおります。
当時の記録では、文久3年4月2日に多摩の井上松五郎が大坂の八軒屋で会ったメンバーの一人に新見錦を挙げており、また同日、大坂の平野屋への借用書に新見錦の名前がありますが、それ以後については定かではありません。同年の8月18日の禁門の政変については、永倉新八は『新撰組顛末記』では新見錦も幹部の一人として参加したと語っていますが、『浪士文久報国記事』では、新見錦の名前を挙げていません。
確かに表舞台に立っていた4月2日から約5ヶ月後に切腹します。在京中であった水戸人の旅宿で狼藉を働いたので、同じく水戸人の介錯で切腹したとか、近藤らによって祗園の山緒で切腹させられたとかいう説があります。
新見錦の墓はなく、壬生寺にある共同墓碑に刻銘されている田中伊織が新見錦だったと考えられています。

松原忠司  (まつばら ちゅうじ)
生年 不明
没年月日 慶応元年(1865)9月1日  (10月20日)
享年 不明
死因 病死、心中説も
出身 播州小野
剣術 不明
大坂にて柔術道場を開いていましたが、そこを畳んで、文久3年(1865)5月25日までに壬生浪士組に入隊。坊主頭で色が白く、体が大きかったと云われています。
同年の禁門の政変、翌年の池田屋事変に参加。その年の11月の行軍録では七番隊の長、翌年の慶応元年5月の組織新編成では四番隊の長となり、また柔術師範を兼任。しかしそれから3〜4ヶ月の間に何かあったのか、9月1日に亡くなります。
子母澤寛の『新選組物語』での壬生心中が有名ですが、子母澤寛しか記録していません。一方、西本願寺の寺侍である西村兼文は、『新撰組始末記』にて、何らかの失策があって切腹しようとしたが、側にいた人に止められて、その後療養して全快したものの、平隊士として職務に戻ったが、間もなく亡くなったと、また同士であった永倉は『同志連名記』にて病死と記しています。
「親切者は山南、松原」と、壬生界隈では云われていたという説があり、松原の墓は同じように親切者と云われていたという山南と同じ光縁寺にあります。


参考文献:菊地明・伊東成郎・山村竜也『新選組日誌 コンパクト版 上・下』新人物往来社  新人物往来社編『新選組銘々伝 第一巻〜第四巻』新人物往来社  新人物往来社編『新選組大事典』新人物往来社
 




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