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試衛館

近藤 勇  (こんどう いさみ)
生年 天保5年(1834)
没年月日 慶応4年(1868)4月25日 (5月17日)     
享年 35
死因 処刑
出身 武蔵国多摩郡上石原村
剣術 天然理心流
農家の宮川久次郎の三男として生まれました。母親を6歳の時に亡くします。幼名は勝五郎。父より学問を学び、また嘉永元年(1848)に近藤周助から天然理心流の剣術を学びました。そして嘉永2年(1849)に天然理心流宗家三代目近藤周助の養子となり、島崎勝太と名乗り、後に近藤勇を名乗ることになります。

山南敬助との付き合いは、山南が近藤と立ち合って負け、その後、山南が近藤の門人になったのが始まりであると云われています。山南が大久保道場の門人として中山幾之進と立ち合ったのが、嘉永6年(1853)の4月と考えられ、また万延2年(1861)の1月に山南が多摩での新年の稽古に参加している記録が残っていることから、嘉永6年(1853)の後半から、遅くとも万延元年(1860)の間に2人は出逢ったと考えられます。
新年の稽古に参加した同じ年の8月に行われた近藤勇四代目襲名披露の野試合に山南を参加させたり、また多摩の出稽古に一緒に行っていることなどから、近藤が山南を重んじていたことがわかります。元々は仙台藩の武士の生まれであり、博学、剣術も優れていたと云わる山南から、近藤自身も学ぶことが多かったのでしょう。それは浪士組として京に行く時、また京にて壬生浪士組(後の新選組)を結成することになった時も同じであり、近藤勇にとって山南に頼る部分は大いにあったはずです。しかし山南が負傷して表舞台に立てなくなった以後、近藤と山南の関係も見えなくなってきています。
元治2年(1865)2月22日に山南が脱走した理由として、近藤や土方への不満、不仲説などが挙げられています。また23日、山南を壬生屯所に連れ戻し、近藤は山南に切腹を言い渡し、近藤の見届ける中、山南は見事な切腹を遂げ、「浅野内匠頭でもこうみごとにはあいはてまい」と賞賛したと云われていますが、脱走も含めて、史実は定かではありません。
山南死後も、近藤は新選組の局長として活躍しましたが、時代の流れには逆らうことができず、慶応4年(1868)4月25日、板橋宿にて処刑となりました。

土方 歳三  (ひじかた としぞう)
生年 天保6年(1835)
没年月日 明治2年(1869)5月11日 (6月20日)     
享年 35
死因 戦死
出身 武蔵国多摩郡石田村
剣術 天然理心流
裕福な農家であった土方隼人と恵津の四男として生まれました。父親は歳三が生まれる前に亡くなり、母親も幼い時に亡くなったため、家を継いだ次男の喜六夫婦に養われました。弘化2年(1845)、また嘉永4年(1851)の2回、江戸にて奉公に上がったものの、どちらも長続きせず、多摩に帰ってきています。その後は、家伝薬である石田散薬の行商に出たり、また母親代わりでもあった姉のノブの嫁ぎ先である日野の佐藤彦五郎宅にもよく出入りし、この頃に近藤勇に出逢ったと考えられています。嘉永4年(1851)に天然理心流に入門したと云われていますが、正式に入門を許されたのは安政6年(1859)であり、この間の土方の動向は不明です。

土方が山南敬助と出逢ったのは土方の正式入門以後、或いはそれより早い可能性もあります。また、万延2年(1861)の1月に日野で行われた新年の稽古には土方も山南と一緒に参加しているので、遅くとも2人の出逢いは万延2年の(1861)1月までにはあったことになります。
新年の稽古に参加した同じ年の8月に行われた近藤勇四代目襲名披露の野試合には赤軍で一緒に参加。文久3年(1863)に浪士組としてに共に京に上がり、壬生浪士組を結成。山南と共に副長という立場で局長である近藤勇を支えたのでした。山南が仏の副長であれば、土方は鬼の副長と云われていますが、新選組が5年も京で活躍したのは、土方なしでは考えられません。
また山南との不仲説が良く取り上げられています。山南の脱走・切腹(自刃)の理由としての不仲説は一応あるものの、それまでの間に、土方と山南が不仲だったと思わせる当時の記録は残っていません。土方にとって山南がどんな存在だったかはわかりませんが、同じ志を持ち、共に京に上がり、壬生浪士組を結成し、局長である近藤勇を二人で支えたのは確かなことです。そして武士の生まれであり、博学で理論的だったと思われる山南を好きだったか、苦手だったかはわからないものの、壬生浪士組の結成、組織の運営、また会津藩から信頼を得るなど、山南を頼りにしていた部分は大いにあったはずだと思われます。山南が大坂で不逞浪士と戦って負傷した事件は土方と一緒だったという説もあります。しかし山南が負傷して表舞台に立てなくなってからは、土方と山南の関係も全く見えなくなってきています。

山南の脱走、また切腹(自刃)は、土方との不仲説、土方が推し進める西本願寺への屯所移転に反対したことなどが云われていますが、史実は定かでありません。土方は山南が亡くなった約一ヶ月半後に、隊士募集のため、江戸・多摩に帰郷しており、その時に多摩の人たちなどへ、山南の死を伝えただろうと思われます。

山南死後も新選組の副長として近藤を支え、幕府・新選組のために働き続けました。しかし時代の流れには逆らえず。鳥羽・伏見の戦いで敗れ、京を去って江戸に帰ることになりました。そして江戸にて近藤亡き後も北上し、戦い続け、義を通し続けます。明治2年(1869)5月11日、箱館の一本木関門にて戦死。

土方の趣味に俳句がありますが、その一つに

水の北山の南や春の月

があります。山南敬助のことを詠んだものではないかとも、そうではないとも意見は二つに分かれており、今では真相を知ることはできず。

沖田 総司  (おきた そうじ)
生年 天保13年(1842)
没年月日 慶応4年(1868)5月30日 (7月19日)     
享年 27
死因 病死
出身 陸奥白河
剣術 天然理心流
生誕については、天保15年(1844)説もありますが、浪士組として参加した記録には天保13年の生まれで届けており、13年説が一般的に挙げられています。陸奥白河藩士沖田勝次郎の長男として生まれましたが、小さい時に父を亡くしており、また母親については不明です。幼名は宗次郎。総司は母親を知らずに育ち、長姉のミツが母親代わりとなりました。そのミツは父親が亡くなった翌年に、日野宿の農家の生まれである井上林太郎を婿に迎え、沖田家を継いでいます。
総司は嘉永3年(1850)に天然理心流の試衛館道場に内弟子として預けられました。近藤が養子となった翌年であり、お互いの境遇、年齢差を考えると、近藤が総司を弟のように可愛がり、また総司が近藤を兄のように慕ったのがわかります。総司は剣の才能に恵まれ、また剣術修行に打ち込んだ結果、12歳の時に白河藩士の剣術指南役と手合わせをして、勝ったと云われています。

山南敬助との出逢いは、近藤と同じように、嘉永6年(1853)の後半から万延元年(1860)の間と考えられます。共に剣術の稽古をし、共に生活する中で、近藤と同じように、山南を兄のように慕い、また山南も総司を弟のように可愛がったと思われます。万延2年(1861)の多摩での新年の稽古、同じ年に行われた近藤勇四代目襲名披露の野試合に共に参加、また文久2年(1862)1月には小野路村を近藤と山南と訪れています。そして文久3年(1863)1月には、山南と2人で、浪士組に参加することになった挨拶ために小野路村の小島鹿之助宅を訪れ、1泊しています。
山南らと共に京に行き、壬生浪士組を結成して、一番隊の副長助勤(組長)、剣術指南役を務めました。壬生浪士組が会津藩預かりとなり、松平容保公の召しにより、壬生浪士組のメンバーは拝謁を賜り、その後に上覧試合を行いました。剣術の部の掉美を飾ったのは、総司と山南の立ち合いであり、天才剣士と剣術も優れていたと云われる山南、そして同じ天然理心流同士の立ち合いは見事なものだったと思われます。同じ年の6月に起きた大坂での相撲力士との乱闘事件の時も一緒だったり、また9月に起きた芹澤鴨派の暗殺に2人とも参加したという説もありますが、それ以後は山南が表舞台に立てなくなったために、2人の関係は見えてきません。
その後、2人の関係が見えてくるのは、元治2年(1865)の2月22日、山南が脱走して、総司が追手として東海道を東に向かい、大津で山南に追い付いたという説です。これについてはフィクション性が高いとされています。しかし切腹の際に介錯をしたのが総司であると云われており、これも史実かどうかは別にして、何故に総司なのかと考えると、2人の関係が色々と見えてくるように思えます。
山南の死を多摩の人たちに伝えた書簡として、唯一、現在に伝わるものは総司によって書かれたものです。「山南兄が先月の26日に亡くなった」と、文末にさりげなく書いています。また亡くなったのは23日ですが、26日と書いてあることから、誤記するほど総司にとって山南の死は重大なことではなかったのか、またはショックから立ち直れていなかったのか、或いは葬儀が26日だったのではないかと色々と考察されます。

山南の死後、天才剣士である総司は最後まで近藤や土方と共に戦いたかったに違いありませんが、肺結核のために最後は思うように戦えず、戊辰戦争にも参加していません。新選組のメンバーや姉のミツも江戸を去る中、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅(松本良順宅と言う説もあり)にて最期を迎えました。

井上 源三郎  (いのうえ げんざぶろう)
生年 文政12年(1829)
没年月日 慶応4年(1868)1月5日 (1月29日)     
享年 40
死因 戦死
出身 武蔵国多摩郡日野宿
剣術 天然理心流
八王子千人同心である初代井上松五郎の三男として生まれました。井上家の祖先は、戦国時代に駿河の今川氏に仕え、今川義元が桶狭間の戦いで敗れた後は甲斐の武田氏に仕え、武田氏が滅ぼされた後、武蔵の日野に移り住んだと云われています。
源三郎は、多摩にて流布された天然理心流に2人の兄と共に入門し、嘉永元年(1848)に目録、万延元年(1860)に免許を授かっています。また安政5年(1858)の日野の天然理心流一門による現在の八坂神社である牛頭天王への献額に名を連ねています。

山南敬助との出逢いは、万延2年(1861)の1月に日野で行われた新年の稽古に2人共参加した記録が残っていることから、遅くともこの時には出逢ったことになります。もちろん、それ以前に出逢った可能性は十分にあります。同じ年に行われた近藤勇四代目襲名披露の野試合に山南敬助は赤軍にて参加しており、この時に源三郎は本陣の鉦役で参加しています。元々の天然理心流である近藤、沖田と山南とのそれぞれの関係は、当時の記録などから見えてくるものがありますが、山南と源三郎の関係が垣間見られる記録は殆どありません。しかしこのように同じ天然理心流の門人として一緒に稽古を行ったり、またその後の宴などで、山南と源三郎は自然に親しくなっていったと思われます。

文久3年(1863)に、浪士組としてに山南敬助らと共に京に行くことになります。この14代将軍徳川家茂の上洛に備えて、幕府が浪士を募集しているという話を誰が最初に試衛館に持ってきたかということについては色々な説がありますが、その中に源三郎の説もあります。将軍上洛に、千人同心として御供することになった源三郎の次兄である二代目井上松五郎から源三郎から話しを聞いたのではないかとも云われています。
新選組では、六番や三番隊などの副長助勤(組長)を勤めました。そして禁門の変、池田屋事変、禁門の政変など主な戦には常に参加しています。また真面目でひたむき、温厚な性格であったと云われており、天然理心流の門人である山南を含めた大幹部の3人や若い総司を常に支えていたのであろう。また新選組の隊士からも慕われていたと云われており、新選組にとっては掛け替えのない存在だったであろうと思われます。

鳥羽・伏見の戦いにおいて激戦であった淀千両松にて戦死しました。共に戦っていた次兄松五郎の次男である井上泰助が源三郎の首を持って大坂まで退却しようとしたものの、重たかったために、仕方無く、途中の寺の門前に埋めたと云われています。

参考文献:菊地明・伊東成郎・山村竜也『新選組日誌 コンパクト版 上・下』新人物往来社  新人物往来社編『新選組銘々伝 第一巻〜第四巻』新人物往来社  新人物往来社編『新選組大事典』新人物往来社
 




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