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さくらのライン新選組と山南敬助さくらのライン

幕末、ペリーの来航後、幕府の力が弱まっていく一方、尊王攘夷の思想が高まり、幕府は公武合体を実現させようと考えていました。
そのために文久3年(1863)に14代将軍徳川家茂公の上洛が決定されていました。
しかし京都や大坂の町は過激派の志士たちや不逞浪士らにより、治安の悪い状況であり、そこで文久2年(1862)の末、幕府は浪士を募集し、将軍の上洛のための治安維持に当たらせることにしました。またこれを考えたのが清川八郎であり、幕府は清川八郎の案を採用したのです。

幕府の浪士募集に、試衛館の門人となっていた山南敬助も、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、またその頃、試衛館に出入りしていたと云われている永倉新八、原田左之助、藤堂平助と共に応じました。
そして文久3年(1863)2月8日、浪士組として江戸を出立して、2月23日に京に着きます。
しかし元々尊王論者であった清河八郎の裏切りにより、浪士組は一度江戸に帰還することになったのです。これに反対して京に残留したのが、山南敬助初め試衛館のメンバー8人、後の芹沢派と呼ばれる芹沢鴨ら5人、その他に江戸帰還を拒んだ殿内義雄や家里次郎などの9人の計22人。そして京にてすぐにこの22人の集団に加わった斎藤一と佐伯又三郎の2人を加えた24名が京都守護職の会津藩預かりとなり、これが新選組の母体となります。
同じ年の8月18日の禁門の政変の時、出動し、その功により、会津藩より『新選組』の隊名を頂きました。それまでは壬生浪士、または誠忠浪士と名乗っていました。

その後は元治元年(1864)6月5日の池田屋事変にて『新選組』の名を轟かせ、同じ年の7月19日の禁門の変に参加し、活躍しました。
その後も幕府のために忠義を尽くしましたが、時代の流れを食い止めることはできず、徳川幕府に終止符が打たれ、新しい政府が誕生することになります。
多くの藩が新しい政府についたり、降伏していったりする中で、新選組は義を通し続け、北上しながら最後まで戦い続けました。

壬生浪士、或いは新選組における役職がいつ頃からあったのかは定かではありませんが、山南敬助は局長の次に当たる副長という役職に土方歳三と共にありました。
副長の後、総長になったとよく云われていますが、当時の記録で総長という役職の名で残っているものはなく、私が確認できたところでは、子母沢寛氏の書籍です。
当時の新選組の幹部であり、山南とは江戸からの同志であった永倉新八、また山南敬助を知っていたと思われる西本願寺の寺侍であった西村兼文も副長という役職のみ、後の記録に残してあります。
当時の記録で残っている唯一の役職名が、岩木升屋にて不逞浪士と戦い、血に染まり、刀が折れている赤心沖光の押型の横に新撰組局長助山南敬助・・・と書かれているものです。永倉新八や西村兼文の記録から、局長助は副長を意味するものだと思われます。

最初の24名のメンバーの中で、蝦夷地まで北上し、最後まで新政府と戦い続けたのは土方歳三のみです。
京にて24名が会津藩お預かりとなってから土方歳三が亡くなるまでが約6年という期間になりますが、山南敬助が壬生浪士・新選組に居た期間はその3分の1となるわずか2年弱であり、また表舞台に立っていた期間は1年もありません。
しかし元々は武士の出身、また博学、剣術も優れていたと云われる山南敬助。壬生浪士・新選組の草創期、局長の次にあるbQの立場にあった山南の役割、働きは大きく、壬生浪士・新選組にとって欠かすことのできない存在であったのは確かなことだと思います。
  
参考文献:菊地明・伊東成郎・山村竜也『新選組日誌 コンパクト版(上)』新人物往来社  新人物往来社編『新選組銘々伝 第四巻 清水隆「山南敬助」』新人物往来社


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